人間五十年

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自律

自己管理能力以前に、油断すると自己の生活を意図的に管理しようという気がなくなってしまう。なぜなら、生活を管理しようとすると生活自体がつまらなくなってしまうからだ。
人生をつまるつまらないでかんがえると、偶然性があるほうが刺激的で面白い。管理した上で面白い人生というのは嘘じゃないかと思っている。
場当たり的なものがないと、人間としての幅は、むしろ狭まると言っていいと思っている。
しかし、求められる結果というものがあるとき、生活に計画性、自律性がないと結果を残すのは難しい。人並みに生きようとすると、結果を求められることは避けられない。
この折り合いの付け方というのが、未だに見つからない。ちょうどいいとこはどこなのか、未だにわからない。それはこのサークルにいる以上無理なのではないかとさえ思う。そんな生活を始めることがあるなら、それは僕が今いるコミュニティから去る時なんじゃないか。そんな風に思う。
かれらは僕が身を投げ出して自律していないのをみて、安心してあとに続く。僕が自律をしようとするとあからさまに不快感を表し、引き入れようとする。なんと弱き人間かとみていていつもおもうが、所詮自分もそんな人たちの仲間なのだとおもうと、これから自分の何かを変えないといけないかと思うのである。

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信じる人

人間には、信じる人と信じれない人、この二種類がいる。

信じれないということはどういうことか。その人は虚無に負けている、虚無を感じているということです。べつに世の中に虚無というものがあるわけじゃないく、それは人間の心境だ。しかしそれは外部から感じとったフィーリングのように僕らの感覚にうったえてくる。

虚無というのはほとんどの人間が生きてく中で感じるものだと思う。これはおそらく避けられない。人間の知能と生活が発達していく上で生まれてしまったものだ。いわゆる宗教というものは、虚無から人間を救うために生まれたといっていい。虚無から脱却するには、信じるしかない。

信じる者は救われるというが、人生のどこかで信じはじめないと、人間は一生虚無にさいなまれることになる。外見的な成功でごまかしはきくが、根本的な解決はできない。富と幸福に相関がないというのはそういうことだ。

また、信じない人間は実はどこも現実的でなく、また合理的でもない。というのは、この世界に絶対というものがあるなんて誰も証明できてないのだから、結局のところすべては自分が信じるか信じないか、気持ちの持ちようである。客観的な正否を問うなんていう行為は全くもって的外れなのだ。

幸福とはなんでしょうか?幸福と快楽の違いというのはなんでしょうか。ひとついえることは、快楽というのは無限的だが、幸福感というものは有限的であるということだ。どちらも人間が感じる良い感覚だが、快楽というのは気持ちよさといわれるもの。幸福感というのは、これがあったらもう他はなにもいらない、とこころから思える満たされた感覚である。

幸福になるためには、多くの人間が陥り、多くの人がわがもの顔で主張する、あまりに短絡的であまりに安易であまりに無知な言葉を無視し、自分独自の価値観を信じる心がないといけないのだと思う。

中には信じる心をもたず、絶対的な美しさを人生に求める人もいる。

ぼくはわりと信じることが出来ない人間だ。

しかし幸福というものが、人生においては重要だろうと考えたから、以上のことを考えた。

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* 面白いからといってやみくもに読むのはやめなさい。ウェブでは、あなたが読むよりも速く情報が増殖していく

* 人の目を介して編集された 質の高い文章を読むようにしなさい

* 人生は短い。多くの意見を聞くのではなく、少数の、物事を深く考えよく洗練された人と議論すること


(1996年にチューリング賞を受賞した、Amir Pnueliの言葉だそうです)

Leo’s Chronicle: ウェブ時代に成果をあげるための心得 (via mayoneco) (via undakovr) (via takaakik) (via wiggling) (via jacony) (via ginzuna) (via ak47) (via proto-jp) (via kml) (via reexodus) (via 21082392009) (via fyfyfy) (via petapeta) (via raw426) (via usaginobike) (via kyohei1989) (via usaginobike) (via mitukiii) (via k32ru) (via layer13) (via k32ru) (via reretlet)

1,050リアクション

見すぎ、読みすぎ、聴きすぎ、調べすぎだもん。
 消化できる分量を超えた情報を入力して、腹を壊して、
 やっと生煮えの出力をしているのが現代の人でしょう。
ほぼ日刊イトイ新聞 - 目次 (via toriaji) (via tyzm) (via suyhnc) (via jacony) (via nemoi) (via konishiroku) (via hirotamaki) (via chintonsyan) (via chikuri) (via ittm) (via n13i) (via petapeta) (via yuramaro) (via motomocomo) (via reretlet)

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苦しみについて

いまの自分のあり方に疑問を持ち、果たして自分の姿勢は正しいのか、気持ちのありさまは正しいのか、と思うことはだれにでもある。それはつまり成長ということだと僕は思うけど、世の中ではそんなことをしてる暇があったら行動をしまくれという考えが席巻している。
行動できるということは客観的な思考を排除しているということである。そもそも客観的な思考という言い方が良くないかもしれない。自己にあえて疑問を持つ、自己をあえて否定する考えがあるかないかということだ。
世の中はおもったよりもざつにできてるわけで、完全をもとめるストイックさは実は必要ない。それよりも雑でもそれだけ沢山の行動を起こし見かけ上の変化を起こすことのほうが大事にされる。なぜならそれは即戦力であり、即結果に現れるからだ。
つまり、自分の人生を自分以外の何かに捧げようというのなら、自分に疑問を持ってはいけない。迷わず、考えず、突き進むだけだ。

人間の内面というものを考えたとき、以上のことを考えざるを得なかったわけだが、この世界にはコミュニケーションという便利なものがある。
コミュニケーションのおかげで、人間は分業することができる。すべてを役割分担してしまえば、即結果をだすためには手っ取り早い。上に書いた考えず迷わずというのも、役割分担をした上で人間が一つのことを集中して行うことで最大限効果を出そうということだ。
しかし、僕は思うわけです。人間とはもっと総合的なものじゃないかと。

817リアクション

われわれの業界でもそうです。実は、プロデューサーも照明係さんもカメラマンも脚本家も、いい男は大嫌いなんです。ですから、背が高くてスラっとしたファッションモデルなんかが出て来たら、必ずライトを当ててやりません(会場笑い)。嫌な役しか当てません。すぐ殺される役だとか、ストーカーの役だとか。そういう役しか当てません。ですから、日本の芸能界にはいい男は一切、育たないんです。彼らが好きなのは、西田敏行であり、竹中直人であり、武田鉄矢が大好きなんです(会場笑い)。

木村拓哉があそこまで行けたのは、背が低いからですね。彼は足が短いからなんです。あれで、あと20センチ足が長かったら、とっくに葬られていますよ(会場笑い)。男たちが大好きなのは、力道山だったり、三船敏郎だとか、高倉健だとか、「俺は、男だ!」と言う人には弱いんです。そういう人には協力します。ですから、昔から言われているのは本当でね。「色男、金と力は無かりけり」みんなが協力してくれないから成功しないんです。日本の企業で、いわゆる会社の社長さん、会長さん、こういう地位になった人は全部不細工です。いい男はまずなれません。

美輪明宏 「ほほえみ」と共に生きる (via mcsgsym)

(出典: aspirinsnowmotomocomoから)

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ニヒリズムについて

ニヒリズム。これは一種の精神の異常状態だ。

僕が住むこの社会では、ニヒリズム的な要素を、多くの人の中に、多くの瞬間に観察することができる。物事を信じられないことが当たり前になっている人間が多い。これは高校の時くらいから感じ始めたことだが、わかってもないことをわかったふりをして絶望ごっこをしている人間がいる。こういった人間は大抵やっていることが適当で一貫性がないし、自分の絶望ごっこに人を付き合わせようとするから厄介だ。ニヒリズムに陥っている人間というのは快楽に走るようで快楽に走れない。あくまで活力がないのである。

人間には活力がある。活力が湧く時というのはどういった時か。

僕は、それは三大欲求ではない、高次の欲求が満たされる時だと思っている。

今手元にある心理学の本(『手に取るように心理学がわかる本』)によると、

人間の欲求は、高次のものから順に、

自己実現の欲求。

承認の欲求、自尊の欲求。

所属の欲求、愛情の欲求。

安全の欲求。

生理的欲求。

があるのだという。すべての欲求を程よく満たしている人というのは物凄く魅力的な人間だ。

従って活力がある人間になるためには、

①自らの欲求の現状を観察する。

②なぜ現状がそのようになっているのか、その背景を理解する。

③足りてないものをバランスよく満たす方法を考え、試行錯誤する。

という行為を日々繰り返し行っていくしかない。

ニヒリズムだけではなく、人間の活力を奪う全ての精神異常は、枯渇し行き場を失った欲求が原因となっているのだと思う。

それらがあくまで異常だという認識がなければ人間に成長はなく、それこそ諦めに浸かり切ったニヒリズムだといって良い。

僕がいってることは、全ての人間について言える健康不健康の常識だ。

以上、精神の健康、不健康についてでした。

各欲求について、いつか詳しく書けたらいいと思う。

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文化と科学の間

自分の人生についてよく考える時がある。人生論というものは、科学的でないため、宗教的、文化的であると言える。ここでいう人生論というのは、より良く生きるためにはどのようにいれば良いのか(地位のため、名誉のため、幸福のため、お金のため、など個人によってくる)ということについての処方案ということ。

今日は考える気分ではないので話が飛躍するが、宗教的である何か、文化的であるなにかというのは、非合理的であるということではない。すべて合理的に説明できる。この世界に存在する各々の複雑化した論理の、取捨選択が個人の判断に委ねられる。

科学と非科学、宗教と文化に対する理解と洞察が自分には足りないと思われる。

いかんせん今日は疲れてて書いてることが雑。でも大体の方向はこんな感じ。

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悲観について

人間の人格的な成長のためには悲観主義は不可欠だ。人格というものは複雑なものだからだ。楽観主義だけではどうにもならない深みがある。
より良い結果を出しためには楽観主義である必要があるという。これはたくさんのえらい人達が同じことを言っているから今回は正しいとする。自分の気持ちをポジティブに保つためには、精神の安定感を手に入れるには、必ずいつか強い悲観主義に陥る必要がある。僕はそう思っている。
今一度考え直してみたい。
ポジティブやネガティブという判断というのは、物事の捉え方、感じ方、考え方の、相対的に分けられたジャンルである。


愚論になりそうなので終了。
ちゃんと落ち着いた状況でかこうとおもいます。移管線授業中

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議論について

近頃、友人と議論の真似事をしている。これまでそう言った機会というのはあまりなかった。経験や知識がある程度重なっている相手、共通の話題がある人とでないと、議論をしようと思わなかったからだ。やってみての感想としては、人の考え方というのはこんなにも違うのかと思う。それぞれにそれぞれの煩悩、精神的な課題があり、表現技術、理解力も足りてない。その中でそういった感想を抱くことになったのだと、今はそう思っている。
議論の技術について、今とても興味がある。
実は本を読み知識をつけるということについて、僕は疑問を抱いていた。僕の読む本というのは、知識というよりか、著者の考え方を観れるものがほとんどだ。その知識に対する軽視というものが、最近仇になってきているのではないか。
やはり多くの知識をつけ、新たな考え方を学び、自らの生活に生かすということは人生を豊かにするために必要だ。ただそこで、人生に生かすために得たはずの知識や考えに囚われてしまい、本末転倒を犯す、ということがよくある。
むしろ人間というものは、何物かにとらわれて、解放されて、ということの繰り返しで成長して行くのではないか。解放され続けてる人間というのは、あり得ないんじゃないか。どうなんでしょう。まあいつかわかるだろうというのは、わかる。
こんなことを書いていて思うのは、僕の文、主張というのはとても曖昧だということ。つまり説得力がない。語彙力が足らず表現があやふやで伝わりにくい。そもそも自分の使う言葉の定義が自分で掴みきれていない。
人と話す上で共通のプラットフォームになるのが知識だ。知識を知らずに人と語ろうとする僕はあまりに傲慢で身の程知らずな人間だった。人の名前を出さず、権威に頼らずに説得力のある主張ができるようになりたい。

一、知識を増やす
一、自分の経験、考えと照らし合わせ、自分の意見を再構成する
一、自分の意見を主張する

今日の結論として、この三つの機会を日々の生活の中で得てゆけば良い。
以上。

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知恵と知識について

人から教えてもらったことというのは自分で発見したものではありません。ならば、それは発見した人が知っていることとは違うのではないでしょうか。
知識というものほど曖昧なものはない。知識というものは、実際に使ってみてからでないと、その信憑性というのは、いくら他人が100%正しいといっても定かではない。正しいか誤ってるかをきめるのは自分であります。自分の感覚に落とし込まないと、まず役に立たないと言っていい。自分の感覚としてつかんだことが知恵というものでしょう。
僕にはそういう感覚が中学高校くらいからあった。口ばかりの人間が信用されないのはそういうことです。自分の身の丈を超えるようなことをいわれても、それは信用しちゃまずいだろう、しくじることになるだろう、となる。
おそらくこれは使い分けが大事であろう。戦時か、平時かで、使い分けないといけない。
もしくは、相手によって使い分けないといけないのか。他の人間が求めているのはどちらの形なのか見極め、使い分けることか。
身の丈を超えるような行動、言動を行わなければ人間に成長はないだろう。新たな知恵は得られない。そして危機に面したとき、雑な行動をとることは求められない。
常に危機であるという感覚を他人に強いる人や集団がたまにありますが、なんてあべこべで的外れなことをしているんだろうと思います。純粋にあべこべなことをする人間なんていうのはなかなかいませんから、まっとうな人間だった人がそんなことをしている場合、完全にその人は商業主義で利益を追求することを第一としています。
おまえはばかやろうかと。僕はそう思うんです。そういう考え方をなんていうのか知りませんが、それは人間としての幸福を無視して人生を生きようとする、本当に本末転倒な考え方でしょう。人生の根幹を無視して枝葉末節にとらわれています。僕にはそう見えます。
商業というものを極めんとすると、そのようなことになるのでしょう。そこで僕は思うんだけど、商業の権化のまましんでいく人というのが人々に尊敬されるのは頭がおかしいと思うんだよね。それに多くの人はあるとしになったらそれが人生の幸福、楽しさではなくて、単なる知恵や技能という、それらのための道具であることにきつんだと、おれは大真面目におもう。すげえなっていう人が多いけど、商業の道を突き進もうと生きてるわけでもないのに、なんですごいって思うんだよっておもう。それは嘘だろ、と。僕の周りにはすごいと対して思ってもないのにすごいという人が多い。それはリアクションでわかる。思ってもないことをなぜ口にするのかと思う。そこで、ふーん、とか、へー、とすませるような人は、いい筋しているなっておもう。人に迎合しすぎる人は信用できない。
その点、人との共感をすぐに引き出せるようなコミュニケーション能力がある人は本当にすごいとおもう。僕の趣味というか、関心が他の人とずれていたことが大きいとおもっているけど、
僕はその部分が不得手だ。誰かに弟子入りしたいとおもう。

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春の不安

漠然とした不安がある。曖昧だが、大きい。それがなんなのかわからない。考えないといけないとおもったから、書いて見ることにした。
授業に関する不安。今のところ授業にはいっていない。朝が起きれない。この疲れはどこからくるのだろうか。これは新しい人と会って疲れてるのか、酒を飲んでるからかと言ったら、多分酒を飲んでることが大きい。おそらく。
運動不足。運動をすると、不安がなくなるということがある。気分がすっきりして、細かいことに気を取られなくなるから、精神衛生のために良いだろう。テニスか、ランニングか、もしくは筋トレか。ジム通いとかボクシングをはじめたりとかは、非現実的な気が、今はしている。こころが弱っているせいだろうか?
これからの生活がどんな風になるのかが、まだわからないということ。生活習慣が確立されていないということが不安を生んでいるのだろう。自分はどのように生きる、という覚悟が揺らいでいる。もう一度、確認しないといけない。自分の欠点を多く自覚させられるこの時期、多くのダメージを受けて揺らいでいた。
こんな不安定な精神状態だと、確信が得られない。こんなときも落ち着いているために、なにか具体的な方法はないのかな。そんな風におもった。

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入力、処理、出力

あることについて書こうとする時、まだ語るべきではないという思うときがある。まだわかりきってないような気がするからだ。わかってないから、かけと言われてもわかったふりのような嘘だらけの文章ができる。嘘はつきたくないから書かない。これはこの前書いた、とりあえず形にするのが大事、ということと思いきり矛盾してるけど、なんででしょう。

本音で語ろうとしているからでしょうか。じゃあ理性的な考えというのは本音ではないのでしょうか。本音とはなんなんでしょう。嘘をつかないとはどういうことでしょう。嘘をつかないというのは、理性を外すということでしょうか。

これは高校くらいから感じ始めたことです。

実際にやるということと、思考するということは違います。簡単に考えると、前者は、外部からの入力があって、脳で処理して、外部に出力するっていうサイクルを繰り返してその回路を発達させること。後者はそれが脳内で繰り返されることだと、養老孟司さんが『バカの壁』で書いていましたが、僕はとてもしっくりきます。

文章を書いてそれをあとから読むと、自分が感じていたことと違うように見える、というのは、自分の頭の中を文章に書き起こすという技能があまりに貧弱で、考え感じていたことに伴っていなかったということだと思います。

僕の場合しゃべるということでも同じことが言えるので、どちらの技量もどうにかしないとこれからが大変になるはず。 さて。

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一分

いくら壁にぶち当たっても、苦しもうとも、絶望を説く人にはならぬ。そう心に決めている。これだけは命に変えても譲らぬ。おれは大真面目にそう思っている。絶望を欲している人がいるだろうか。そんなやつは絶対におらん。無理なことをするやつはいる。そういうやつは勝手に潰れるからそのまま潰れさせておけば良い。死ぬなら死ぬで好きな様に死なせてやれば良い。そこで押さえつけようとする人間の気がしれぬ。

怖いのだろう。理解の域を越えたことをしようとするを恐れる人間ばかりだ。おれはそこで理解不能の域を肯定する人間になりたい。

松永弾上少弼久秀というやつがいた。こいつほど自由な日本人は珍しい。おれは信長より、こいつのほうが好きだ。

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帰るということ

今は春休み。時間に余裕がある。時間と体力、気力に余裕があるからこんなことを考えてられている。これから学校が始まるとどうなるだろうか。就職活動を始めるとどうなるだろうか。働き始めたらどうなるだろうか。その余裕、ゆとりはなくなっていくとおもいます。結果と成果を出すためならそれはいい。ただその中で、自分の方向性というものを見失いたくない。そういう思いがある。自分の感覚的には、おれはおれ。周りの人や環境から影響は受けるが、それに完全に染められはしない。あくまで根本は、このおれであることには変わりない。

だが自分には入り込みやすい性質がある。集中することは得意だ。しかし集中し入り込むということは、その対象に入り込み、殆ど同化してしまうことだ。その境地には、自我がない。そういったことを繰り返しているうちに、あらかじめ思っていた方向、想像していた方向とは無関係な方向に進んでしまうということばかりだ。ここで、自分に戻る時期、時間というものがほしい。桜井章一は「帰る感覚」とか「たまに自分の感覚に戻さないといけない」とようなことを言っていたと思うけど、そういう時間を必ずとりたい。僕は高校の頃、この時間をとろうとしなかった。それからいままで誰も乗ってない船みたいに漂っていた。それでこのまえようやくどこかの陸地に打ち上げられたようなかんじだ。

いわゆる忙殺というものの怖さは、自分自身に帰る余裕を失い、他人の感覚で生きなければならなくなるということだろうと思う。これは言い換えたら、洗脳というものじゃないかと、思っています。組織というものには、洗脳はつきものです。これは春合宿で客観的に見ていたらそういうばと思って感じたことです。またこんど考える機会があればと思ってます。

昨日は園遊会でしたが、自分の中でいろいろ迷走していたので、あまり4年生と話せなかったのが、とても悔やまれています。気になってはいましたが、迷走している中でちゃんと話すような器用さは持ち合わせていないのでこんなことになってしまいました。来年はきっと関内でやろうと思いました。